尾張藩御用塗師の初代一國斎の長男が大坂へ出た時に随行したのが初代中村又斎(1827〜1900)であり、又斎は後に名古屋へ戻って仕事を始めた。その後、二代又斎までは資料の中に確認していたものの、三代目の在銘は初見である。 棗の蓋裏の即中斎(1901〜1979)の花押は恐らく後から入れられたものであろうが、棗の雰囲気や箱行きから考えて大正後期から昭和初期に作られたと考えるのが妥当であろう。 内側の塗りと丸金の置き方などはM-21の「水月平棗」と共通するところであるが、形やデザインに雅味を感じるのはやはり茶道が盛んな名古屋ならではのものである。