安原祥窓は、金沢出身で大阪に於いて輸出用の高級蒔絵の仕事をした安原清(機芳)の次男として生まれた。明治32(1899)年に父・清の跡を継ぎ、大正の頃より展覧会などに出品を重ねる。その作風はモダンなデザインの中に、古来よりの様々な漆芸技法を組み込んだものであり、非常に高い技術が施されていながらも親しみやすい雰囲気の作品が多いように見受けられる。
本品も、南蛮より渡来し国内では主に讃岐地方で発展してきた「蒟醤(キンマ)」という技法を用いている。蒟醤とは、漆塗面に線刻を入れ、地色とは別色の漆を象嵌するように塗り込んでから磨くことで文様をあらわす技法である。しかし、大阪の地に於いてこの技法が用いられていた文化は聞いたことがなく、まさに祥窓がこのデザインを生かすために蒟醤技法を用いたのだと考えられる。外縁部の四方に、四君子である「蘭・竹・梅・菊」の文字を銀漆であらわし、雷文で縁取った内側に、デフォルメされた青海波・千鳥文様が朱や金色で埋められている。特に青海波文などは非常に細い線で彫られており、並の技術では線がつぶれてしまうだろう。
多少の使用スレはあるが、良い仕立ての二重箱に収まり、箱書きも非常に畏まった書体である。資産家の注文により制作した逸品であろう。 |